子どもの頃から歌うことが苦手だった私の人生の物語。2024年7月より毎週月、木曜日に次の話を配信。第1話は、こちら。
第6話 小さなコンサート
声楽を始めてから一年も経っていなかったけど、その年のクリスマスに仲間たち3人で小さなコンサートを開くことになった。
先生にはコンサートで歌う曲を相談していたのだが、私がどうしても歌いたかったのは、そのころレッスンでの課題曲になっていたシューベルトの「アヴェ・マリア」だった。
先生は、何度か忠告してくれた。シューベルトのアヴェ・マリアは、プロの人でも1年から3年くらい時間をかけて練習する曲だから、数か月では無理です、と。
しかし私は、先生の忠告を素直に聞き入れられなかった。それまで先生がすすめてくれる曲を拒むことなく歌ってきたけれど、アヴェ・マリアを歌いたいという気持ちが、なぜか私の内側に強く湧きあがっていたからだ。
声楽のレッスンでは、基本的にどの楽曲も原語(もとの歌詞の言語)で歌う。そのため、シューベルトのアヴェ・マリアもドイツ語で歌うことになっていて、ドイツ語の歌詞の意味を調べて、楽譜の裏に鉛筆で書くこともした。
忘れられないのは、電車の中で、楽譜を見ながらアヴェ・マリアの2番を聴いていたときのこと。あるフレーズを聴いた瞬間に涙が急にあふれ出し、しまいには、鼻水も止まることなく流れ出てきてしまった。
涙と鼻水があんなにしたたるくらいになるなんて、曲と歌詞の中にあるチカラを思い知らされた感じだった。今考えてみれば、少し恥ずかしさもこみ上げてくるけれど。
あのフレーズの意味は、たしか……「かたい岩にも入り込むあなたの慈悲深さ」だったかな。ドイツ語を勉強したこともないのに、不思議と発音の仕方を知っているかのように、ドイツ語の曲を歌うことができた。
自分の中ではちょっとした驚きでもあったけど、なぜかそれが当たり前のようにも感じられた。当時は、日本語の歌詞を歌うよりも、ドイツ語の歌詞を歌ったほうが歌いやすいというか、声がより出ているような感覚さえあった。
クリスマスのコンサートは、小さな子どものための保育施設を借りておこなうことになった。そこは少し古い建物だったけど、床や壁、天井のどこを見ても建物全体が木で作られている感じで、気持ちがおだやかになる場所だった。
たしか下見に行ったときに、歌を歌うときは音が吸収されちゃうかもって、友達のだれかが言っていたような気がする。
当日のコンサートには、それぞれの家族や友人たち総勢で30人くらいが来てくれた。ただ歌うことだけに集中していたから、どんなふうに聞こえていたかなんて考えもしなかったけど、何人かの人がすごくよかったよ、と感想を言ってくれた。なかには、祈りのように聞こえたよ、と言ってくれた人もいて、思ってもみない感想を聞けて少しびっくり。内心、コンサートで歌うことができてよかったと思えた。
「井上さんは、心臓に毛が生えていますね」
すべての歌をなんとか歌い終え、ほっとしているとき、先生はこう言ってくれた。
心臓に毛が生えている……。
結局、先生に忠告してもらったにもかかわらず、私は自分の思いを押し通して、アヴェ・マリアを歌ったのだった。先生の本心はよくわからなかったけれど、最後までよく歌い切ったという、ほめ言葉をいただいたのだろうと思うことにした。
ソロで歌うアヴェ・マリアの歌い出しはまずまずで、極度の緊張もしていなかった。
しかし、途中から楽譜を持っている手が明らかに震え出した。会場の人に見えてしまっているのではないかと思うくらい、手のひらから肘までの震えが大きくなってしまったのだ。
全体を通して自分ではそれほど緊張していなかったように思えたけど、コンサート直前に友人が撮ってくれた写真を見たとき、どうして手が震えてしまったのか、その意味が少しわかったような気がした。顔は何かにおびえているようでもあり、何とも言えない不安げな立ち姿になっていたのだ。
まさか、人前で歌うことになるなんて考えもしなかったが、その数か月後には、知人のすすめでさらに歌う機会を得ることになった。
場所は、とあるマンションの一階の駐車場。その知人が主催する一日限りの小さなイベント会場で歌うことになった。伴奏は、声楽を私にすすめてくれた友人に頼んでいた。
当日会場に足を運ぶと、そこはマルシェのようになっていた。ところせましと小さなテーブルがいくつも並び、その上にはハンドメイド作家さんの作品やおいしそうなお菓子が並べられている。そしてライブが始まる時間になると、係の人が、私を簡単に来場者の方に紹介をしてくれた。
しかし、にぎわっていた会場は静まる様子がない。なんとなくそのまま歌う気がしなかった私は、少しの間、待つことにした。すると、少しずつ会場の人たちが私のほうを向くようになっていき、思ったよりも早く会場はシーンと静まり返った。
会場のみなさんは私のほうを見つめている。時間にしたらほんの一瞬でもあったけど、その光景はどこか懐かしい感じでもあり、不思議と歌う前の緊張はなく、気持ちはおだやかだった。
選んだ曲は、「ふるさと」「夏の思い出」、他数曲。歌っていたときは、意外なほど余裕があった。イベント会場の向こう側は普通の道路になっていたのだけど、人が歩いている姿が見えて、自分の歌声が聞こえているかな、なんて思うくらいだった。
大変だったのは、歌い終えてからのこと。あいさつを終えてほっと一息ついたとき、急に強い痛みがみぞおちの下あたりに浮上してきたのだ。
なんでだ? 無理しているつもりはなかったけど、無理していたのか……?
思わずお腹に手を当てて前かがみになるくらいに、それは強烈なものだった。
それでも何日か経つと、原因が少しずつわかってきた。人前で歌う楽しさを得られた反面、 潜在意識に埋もれていた過去のトラウマが、表面化してきたのだった。
その後は、おのずと人前で歌うことを控えるようになっていった。みぞおちに感じたあのときの痛みは、それくらいに強烈だったのだ。
・・・・
全20話の物語。第7話の配信は7月22日(月)12:00です。
配信済み話は、こちら。

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